Trip
Issue : 56
田万里家 FARM STAY|"ない"の奥にあるもの。限界集落に流れる豊かな時間
広島県竹原市の山あいにある、小さな集落・田万里(たまり)。目立つ観光地でも、便利な土地でもない。けれどここには、見落としていた豊かさがある。「ある」と思えば、「ある」。そんな心のあり方をそっと映し出してくれる宿、それが田万里家 FARM STAYだ。
「何もない」のではなく、「何かがある」と気づけるか
両脇を山に囲まれ、青々とした田畑が広がる道を進む。
その先に、田万里家 FARM STAYは静かに佇んでいた。
「この田万里という土地は、端から端まで5キロほど。車なら数分で通り過ぎてしまうほど小さな集落ですが、僕にとっては広く感じるんです」
そう話してくれたのは、田万里家 FARM STAYのオーナー・井本喜久さん。季節の移ろいとともに現れる表情豊かな風景に出会うたび、この土地の奥行きを感じるのだという。
井本さんの故郷は広島県竹原市。田万里には祖父母の家があり、幼少期に何度も訪れていた。
「田舎で不便だし、子どもの頃は好きじゃなかったですね」
そんな印象が変わったきっかけは、2018年の西日本豪雨だった。
被害の知らせを受け、ボランディアにかけつけ、140人近い仲間とともに滞在した。その時間のなかで、幼いときに抱いていたものとは違った感情が湧いた。
「農家の方と話し、美しい風景の中で暮らしてみて、『何もない』と思っていたこの土地には、確かに何かが“ある”と気づかされた。結局、あるかないかって、自分の見方次第なんだなって思いました」
豊かさに気づける場所をつくりたい、自分が素敵だと感じた田万里の風景を共有できる場所をつくりたい。田万里家 FARM STAYが生まれた背景には、そんな井本さんの原体験がある。
宿は、土地の世界観を深く味わう器
「妻ががんになり、3年半の闘病の末に亡くなりました。その出来事で、僕の価値観は大きく変わったんです」
井本さんは穏やかに、けれど確かな言葉で語ってくれた。
「どうしたら人は健やかに生きられるのか。暮らしのあり方を根本から問い直すなかで、農家の生き方に触れたいと思ったんです」
日本中の農家を訪ね、対話するなかで感じたのが「自然と共に生きていく」というあり方だった。当時、広告会社で働いていた井本さんにとって、その生き様は美しく思えたという。
「ロジックやスピード偏重のビジネスの世界に生きていた自分にとって、『今年はダメだったね』『また動物にやられたよ』と言いながら自然と関わり続ける様がかっこよかったんですよね。なんだか生き生きしているなと」
小さくつくり、大きく届ける
田万里家 FARM STAYは、そんな「自然と共に生きていく」というあり方を実感できる宿。米づくりが盛んな土地柄を活かして米粉ドーナツ屋を併設し、農体験も行う。
「ただ、僕がドーナツ好きなだけなんです。ロジックも戦略もなくて、そういうほうが人間らしいでしょう?」
とはいえ、このドーナツが果たす役割は大きい。
広島駅にサテライト店舗、広島空港など各地でPOPUP店舗を展開し、2025年にはオランダ・アムステルダムにも出店。農村で生まれた価値観を、海外へと届けている。
農体験では、田植えや収穫といった楽しみやすい工程だけではなく、草刈りなどの地味な作業にも取り組んでもらう。そして、夕食は田畑で取れた作物を活かしたおばんざいをつくり、ゲストとともに食卓を囲うこともあるという。
「宿は、その土地を深く味わうための存在。そこに滞在することで初めて価値観や空気感が共有されると思うんです」
暮らしの選択に、理由がある
1棟貸しの宿で、客室は全部で3室。
ドミトリー形式のファミリールームが1部屋、ダブルベッドが置かれた個室が2部屋。いずれもウッドを基調にしつつ、余白を持たせたデザインが心を落ち着かせてくれる。
窓の向こう側に広がるのは、田万里の田園風景。
ゆっくり日が昇る朝、明るい陽光が差し込む昼間、茜色に染まる夕方、そして星空が広がる夜……この窓は、田万里のさまざまな表情を切り取ってくれる。
「すべてのデザインに理由があります。妥協はしていません」
井本さんの言葉の通り、宿のすみずみにまで意思が通っている。
ここからは、そんな田万里家 FARM STAYに込められている暮らしのヒントを探っていく。
快適さも、農村の魅力になる
「古民家らしさ=不便さ」ととらえる人も多いけれど、田万里家 FARM STAYはそうしたノスタルジーにとどまらない。
たとえば、室温を安定させる空調機器や、低温で身体をじっくり温めるミストスパなど。
最新のテクノロジーを取り入れ、快適性を丁寧に設計している。
「以前アフリカを旅したとき、砂漠の中にぽつんとある快適な宿に滞在して、心地よさってこういうことだと思ったんです。限界集落という環境で、極上の滞在をつくる。僕はそこに面白さを感じています」
絶景は、食卓にある
農村の“絶景”とは、山や棚田ではなく、「食卓」だと井本さんは言う。
自分たちで育てた作物を、選び抜いた器に盛りつけ、誰かと一緒に味わう時間。
そのひとときに、豊かさの本質がある。
特にこだわったのが、椅子とテーブル。
飛騨高山の老舗家具メーカー「飛騨産業」を訪れ、素材に向き合う職人の姿に心を打たれたという。
「木と真剣に向き合ってつくる家具を使いたいと思いました。この椅子とテーブルがあるだけで、食卓がもっと豊かになる気がして」
食堂は作家の展示会やイベントにも活用される。
自然に還る、という設計
田万里家 FARM STAYの空間には、「自然と共に生きる」という思想が通っている。
たとえば、素材の選び方。
木、石、綿、土……この宿で使われている資材やインテリアの多くは自然由来のものだ。
金属スプリングを使わないマットレスや、綿100%の羽毛布団。
自然に還る素材は、環境にも、そして身体にもやさしい。
「建物も、暮らし方も、ちゃんと自然の循環に乗っていくこと。それが気持ちよく生きることにつながるんじゃないかと思うんです」
旅人ではなく、一時的な“住人”として
物見遊山の観光ではなく、一時的な住民のように滞在する。
田万里家 FARM STAYで味わえるのは、農村に宿る豊かな価値観に触れられる旅だ。
そこで目にした風景は、きっと生き方をも問い直されることだろう。
自分がどんな目で世界を見ているのか。何を豊かと感じるのか。
そんな問いに、静かに耳を澄ませたくなる。
yado's pick up item
田万里家 FARM STAYが大切にする「食卓」を彩るのが、広島出身の陶芸家・吉野瞬さんの器たち。
食材の色味、手ざわり、盛りつけの余白——。
器という存在が、ひとつの旅の風景をつくりあげている。
Editor’s Voice
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都市で生きる自分にとって、ふだん触れたり扱ったりするものの大半が気づけば「情報」になっている。でも、田万里家では、それが手触りのある「自然の風物」に置き換わっていた。揺れる草木を眺め、あたたかな土に触れる。画面上や頭のなかで処理するのではなく、目の前の世界に身体を投じて具体的に関わっていく。果たして“ない”のか“ある”のか。それをどう感じられるかはわたし次第なのだと、自分の生き方を問い直される時間がここにあった。
Takumi Kobayashi(Writer)
Staff Credit
Written by Takumi Kobayashi
Photographed by Masahiro Ohno
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