Trip

Issue : 16

自分の日常を離れ、誰かの日常を覗く。
“よそ行きではない京都”を旅して思うこと。

連載『市川渚と旅と宿』。今回の旅先は、彼女にとって何度足を運んでも新たな発見があるという街、京都。
「誰かの日常は、誰かの非日常」。そこに生きる人や文化との出会いから受け取る、日々への気づきを綴る。

Profile

市川渚

ファッションデザインを学んだのち、海外ラグジュアリーブランドのPRなどを経て、2013年に独立。クリエイティブ・コンサルタントとして国内外の企業、ブランドのコミュニケーション施策の企画、コンテンツ制作、ディレクションに関わる。自身でのクリエイティブ制作にも注力しており、フォトグラファー、動画クリエイター、コラムニスト、モデルとしての一面も合わせ持つ。旅行と写真とインターネット、LINEのブラウンが好き。

  • 旅のきっかけのこと

    今回は、京都という街について書く。私にとって京都は、ここ10年ほどで一番足を運んでいる場所だ。出会う人に京都住まいの人が多かったり、京都の大学で教鞭を執る機会を頂いたり、生活の場を東京から京都に移す友人がいたり。京都には不思議とご縁がある。

     

     

     

     

     

    2011年あたりからほそぼそと「Swarm(元々はFoursquare)」というアプリで行った場所の記録を続けていて、それによると京都駅には65回行ったことになっていた。チェックインを忘れていることもあると思うので、実際京都を訪ねた回数ははそれ以上のはず。

     

     

    書けるエピソードはたくさんあるはずなのに、なかなか筆が進まず「なぜだろう」と眉間にシワを寄せながら、カレンダーに表示された「原稿〆切」の文字が近づいてくるのをぼんやりと眺めていた。



    ”京都通”などと自称しようとはまったく思わないが、たぶん、そこそこ、京都のいろいろな顔を見てきている方だろう。しかし、何度足を運んでも、新たな発見があり「わかったふりをしてはいけないなあ」と思う、それが私にとっての京都という場所だ。京都という場所に想いや誇りを持っている人たちがたくさんいるということを知っているからこそ、軽々しく語っちゃいけない、なんて思ってしまう。そんな空気を察させてくれるのも、京都という場所の面白さ、だろうか。

     

     

     

    京都に生きる人たち

    長い歴史が育んだ土地であることは、誰もがご存じであろう。子どものころ、修学旅行で連れてこられたときには、長い年月を刻んできた事自体の価値になんて微塵も気付けなかったけれど、よい大人になった今、”コンテクストに溢れた街”の魅力に改めて魅了される。京都では、街の中で目につくありとあらゆるものに、歴史とストーリーがあって、それらは大体、自分の想像を一桁くらい越えていたりする。

     



    そして、そこで生きる人たちも、普段私が生活していて出会う人たちとはこれまた一味違う。昨年は「KYOTOGRAPHIE 京都写真芸術祭」の取材で京都の老舗帯屋「誉田屋源兵衛」の十代目当主、山口源兵衛氏にお話をお伺いする機会があった。

    江戸時代から続く帯匠の歴史を継ぐ者でもあり、一見、近づくのすら恐れ多くなってしまうような鋭い視線を持った方なのだが、ユーモアを織り交ぜ私たちを笑わせつつ、作品制作の裏話を熱く語ってくださった。伝統を守りつつ、新しいことを取り入れながら、いくつになっても自らの心と身体を極限まで追い込んでものづくりに向き合うその姿は、ただただ格好良かった。



     

     

     

    もう一つ触れておきたいのが、2020年に京都で開催されていたフォトグラファーの町田益宏氏による写真展「In between crafts 継ぐもの」だ。この展示も私に”京都に生きる人たち”の一面を垣間見せてくれた展示だった。

     

     

     

    会場には、京都の伝統産業に関わる家族の肖像が、彼らの仕事場や仕事道具を捉えた写真とともに展示されていた。道具に刻まれた、彼らの歴史。そして、その道具を通して受け継がれてきた技術。それらを継ぐものとして生まれてきた子どもたち。もちろん、中には”継がない”という選択をする人もいるだろうし、生まれながらにして決まっていた運命を受け入れることに葛藤する人もいただろう。写真に映った家族たちの息子、娘たち世代は、おそらく私と親しい年齢の人たちだ。彼らが何を想い、日々を紡いでいるのか、色々と想像を巡らせた。

     

    もちろん、典型的な日本のサラリーマン家庭に生まれ、東京近郊のベッドタウン育ちの私には、積み重ねられたものを継いでいくことの重責など、全く想像すらつかない。

     

    けれど、普段、見ている世界とは全く違う世界を見つめて生きている人たちがいる。誰かの日常は、誰かの非日常。これは、むろん、京都に限らず、どこを旅していても思うことなのだが、こんな当たり前のことに改めて気づかせてくれるのが、旅というものの面白さ。旅先で夜景を眺めていると「この灯りひとつひとつに、誰かの生活があるんだ」と考えてしまって、よく気が遠くなるのも、そのせいだ。

    「よそ行き」ではない街の一面を見る

    もちろん、京都は歴史や伝統だけの街ではない。カフェ文化も根付いていて、(閉店してしまったお店も多いが)老舗のカフェやレトロな喫茶店から、ロースターを備えたスペシャリティコーヒーショップや若者でごった返す映えるお店までバラエティーに富んでおり、毎度、足を運びきれない。

     

     

     

     

     

    京都は観光地でありながら、150万人近いたちが生活を営む街でもあるから、カフェ以外にも、地元の人たちに愛される小さなお店が多く存在する。歩きながら、そんなお店にふらっと立ち寄って、観光客向けにつくられた「よそ行きの顔」ではない街の一面をチラ見させてもらい、そんな人たちに混ざったふりをして(実際にはよそ者だとバレバレだとは思うけれど)時間を過ごさせてもらうのも楽しい。そんなお店に限って、写真を撮りづらい雰囲気だったりするので、写真がほとんど残っていないのが残念なところではあるのだが。



     

     

    ああ、そうそう、実は京都には美味しいラーメン屋さんが多くて、私は京都に行くと必ず一度はラーメンを食べている気がする。「麺屋猪一」に行くか、「セアブラノ神」に行くか、はたまた新規開拓をするか……。京都行きの新幹線に揺られながら、毎回頭の片隅で考えている。

     

     

     

     

    さいごに

    yadoが提唱する「泊まるように、暮らす」というコンセプト。ホテルや宿という非日常空間を作り出す要素を日常に取り入れて暮らす、という意味合いが濃いのだとは思うけれど、もう少し概念的に捉えてみると「どこかに泊まり、何かに出会い、それによって得た気づきを、自分の日々の暮らしに生かしていく」そんな風にも解釈できる気がする。



     

     

     

    自分の日常を離れて、誰かの日常を覗かせてもらう。自分の知らない誰かが、自分の知らないところで、自分とは違う日々送っていることを改めて知る。ごくごく当たり前のことなのだけれど、旅先でいろいろなものを実際に見て、肌で感じることは、視野の広がりと受容の心をもたらしてくれると私は思う。そんな旅が私たちに与えてくれるものは、多様性が叫ばれる現代おいて、とても大きなことではなかろうか。

Staff Credit

Written & Photographed by Nagisa Ichikawa

About

泊まるように暮らす

Living as if you are staying here.

食べる、寝る、入浴する。
家と宿、それらがたとえ行為としては同じでも、旅先の宿に豊かさを感じるのはなぜなのか?
そんなひとつの問いから、yadoは生まれました。

家に居ながらにして、時間の移ろいや風景の心地よさを感じられる空間。
収納の徹底的な工夫による、ノイズのない心地よい余白……。
新鮮な高揚と圧倒的なくつろぎが同居する旅のような時間を日常にも。

個人住宅を通して、そんな日々をより身近に実現します。